今日一生懸命生きられたとしても、
理屈や道理で言えば、明日も充実した一日になるかどうかはわからない。
明日何が起こるかは、誰にもわからないのだ。
だから、明日も充実した一日になればいいなと思うのは、理屈や道理ではなくて、祈りとか、信仰のようなものであるかもしれない。
家を少しでもきれいに整えることや、体のストレッチを怠らないこと、酒を飲みすぎないこと、浪費しないこと。そういうことが、また明日の一日を少しでも一生懸命に生きられる可能性を上げるのに繋がるのであれば、私の祈りというのはそのような活動のことである。
だれに感謝するでもない。なにか念仏のようなものがあるわけではない。
まあ、時々破滅的な飲酒をしたり、泥中で眠るような暮らしをしてしまったりと、今さっき書いたことの真逆のようなことをしたりすることもある。まあ、でも概ねそういう日々は例外になりつつある。
そのような地味なことを繰り返していたら、
少しづつ自分自身を大事にすることができるようになったような気もする。
最近は家の掃除をしたら、玄関や家の周りもホウキで掃くようになったりしている。
ものすごい量のホコリが家の外には溜まっていて、「1回や2回できれいになりそうもないな、クレンザーはないかな」ともぞもぞと探し出したりもする。
自分自身をしばらく大事にしていくと、自分のその周りのことにも気がつけるようになる。これは、付け焼き刃の気遣いではなくて、もっと「我が事」としての周囲の環境に気がつくような感じだ。
そのようにして、世の中を大事にする、という考え方は結構理にかなうように思える。祈りというその頼りない心は、具体実践によって支えられるのだ。
