久しく会っていなかった友人に先日会った。 大学時代のサークルの同級生である。
最後に彼にあったのは2013年位だったか、東京駅八重洲口のスタンディングバーで我々は無能な民主党の悪口で大いに盛り上がっていたのだった。
だから、だいたい10年くらいぶりである。長い間、人に会わないと、その人には様々なことが起きるものであるが、10年というのは、様々なことが起きて、そのことが決着している程度に長い期間である。私もいろいろなことがあり、また決着したのである。
ともあれ、10年って長いよね〜、ということを書きたいわけではない。今日書きたいのは「折り合い」についての話だ。
折り合いをつけるしか無い
さて10年の彼であるが、腎臓が悪くなってしまったらしい。もともと体が弱くおありだったが、この間にさらに悪くなってしまい、浮腫や薬の副作用に悩まされているようでとても辛そうだった。
内臓関連の疾病は、例えば糖尿病のように完治することが難しい。進行を抑えたり、症状を緩和させていくことを日常に組み入れるようにしていかねばならないのだ。つまり、病と折り合いをつけて、病とともに生きていかねばならない。
どうしようもないことは存在する
最近、生きていて思うのは、「どうしようもないこと」というのが、せむかたなく存在するということだ。いつか突然、天災が起こって自分の財産や心身、大切な人が損なわれるかもしれない。いつか誰かの不注意で、交通事故に巻き込まれてしまうかもしれない。
「どうしようもないこと」が、私達の眼前に立ちはだかってしまったとき、絶望しなければならないのだろうか?絶望して、この世の終わりだと嘆くばかりなのであろうか?
もちろん、そうではない。わたしたちはそういうときに、「折り合いをつける」ようにして生きているようだ。絶望して生きることを諦めることと、不幸を受け入れて、なお日々を進むことは、まったく違うことだ。
折り合いをつけるためには時間が必要だ…。
ところで、時間というのは人間にとって大いなる恵みであると思う。どんな辛いことも、日が経つにつれて、その辛いことから心理的な距離を作ってくれて、「折り合いをつける」ことを扶けてくれる。
どんなに辛いことも、いつか時間のお陰で緩和することができる。だから、受け入れがたいほどの辛いことがあっても、私達は絶望ではなく、折り合いをつけるべく切り替えて日々を生き、そして、いつかまた、いい感じの日々が戻ってくるだろうと思うのである。
